父の日に寄せて
こんばんは。
不登校経験者で元教員。
生まれながらの不器用人間、柴田ゆき野です。
今日は、父の日。
社会人になってから、毎年贈り物をしている柴田ですが、今年も服をプレゼントしました。
なぜ、服かというと、私の父は、まぁおしゃれには無頓着。
でも、母が買った服は着ないというアマノジャクさんで(笑)、私が買った服は着てくれます。
しかも結構な頻度で着てくれるので、プレゼントのしがいがあるってもんです。
今でこそ、こんな贈り物をするような普通の関係に落ち着きましたが、思春期はそりゃひどいもんでした。(笑)
今日は、父の日に寄せて、私と父との関係を振り返ってみたいと思います。
完全に、自分のための記事ですな。こりゃ。
赤ちゃんの時こそ、母以外の抱っこは受けつけなかった私も、物心つく頃には「お父さん大好きっ子」になっていました。
お父さんとお風呂。
お父さんとお出かけ。
お父さんと遊ぶ。
体温の高い父の布団に潜り込んでいくのは、幼少期の冬の日課でした。
しかも、そのままおねしょしてしまったことも(笑)
それでも父はビックリしただけで、怒りませんでした。
そうなんです。小さい頃、あまり父に怒られた記憶がないんですね。私。
仕事人間な一面もあったので、基本的に躾は母の役割だったのでしょう。
母から怒られた記憶はいくつもあります(笑)
絵にかいたような「優しいお父さん」が大好きだった、私の幼少期。
しかし、小学校の高学年にもなってくると、その関係性が一転します。
思春期に突入。
ちょうど不登校になった時期とも重なっています。
長い長い反抗期だったと思います。
もう、父の全てが気に入らない。
何かにつけて、父の言動に文句を言い、罵っていました。
「咀嚼の音が、くちゃくちゃうるさい。」
「こっち見るな。」
「キモい。」
「さわるな。」
数えきれないくらいの暴言を父に浴びせました。
今思い返しても、本当にひどい。
自分でも、なんでこんなこと言えたんだろう?と、不思議に思うほどです。
しかし、逆を返せば、「父にしか言えなかった。」のです。
だれにも見せられない、心の汚い部分を見せられる唯一の相手。
ストレス発散の拠り所が、父だったのでしょう。
正直に全て話すと、父に対して手足が出てしまったこともあります。
かなり強く当たってしまい、倒れこんでうずくまる父を見て、「やってしまった。」と、後悔がよぎりましたが、そこで謝れるようなら、はじめからそんなことはしていません。
自分の部屋に閉じこもり、布団の中にもぐりこんで、時が過ぎるのを待つしかありませんでした。
そんな関係が、大学に入学して、私が実家を離れるまで続きました。
高校生のころは、やや落ち着いてきてはいましたが、やっぱり暴言を吐くことがあったように思います。
父の優しさに、改めて気づくことになったのは、私が実家を離れてからでした。
私への仕送りは、父がしてくれていたのですが、月一の振り込み以外にも、マメに残高をチェックしてくれており、減りが早いと臨時で入金してくれていました。
不器用で、口数も少なく、自分の携帯を持っていなかった父とは、母に連絡したついでに少しだけ会話をするといった感じでした。
「ご飯はちゃんと食べよるか?」
父が自分から話すのは、これくらい。
毎回、ご飯のことだけ。
大学に通う娘に対して。もっと聞くことはあるんじゃないかと思いますが、私とのこれまでの関係性を思えば、これだけでも精一杯だったのかな、とも思います。
大学4年間を鹿児島で過ごしましたが、結構な頻度で熊本から母と訪ねてくれました。
日帰りで。
往復4時間越え。
本当に、顔を見るだけですね(笑)
離れてみて感じる父の優しさ。
近くにいると気づけなかったことに気づくことができて、本当に良かったと思うと同時に、反抗ばっかりしていた自分に恥ずかしさを覚えるばかり。
何で、あんなひどい言葉を言ったんだろう。
度々、そんな考えもよぎりました。
きっと、優しい父に甘えてたんだろうと、想像できますが、言った言葉は無かったことにはできません。
大学以降は、実家で暮らすことはなかったので、父との距離感もちょうど良いものとなり、普通に会話もできるようになりました。
父と2人で県外に出かけたこともありました。
過去は消せませんし、その時はその時で私も必死だったのだろうと思います。
なので、大人になって思うことは、月並みですが、しっかり親孝行をしよう!ということ。(笑)
私なりに、ですね(*^^*)
まずは、私が毎日楽しく元気に、そして幸せに生きることが1番の親孝行だと勝手に解釈しておりますので、それは日々実践中です^ ^
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました(*^^*)